白壁と清流の町

筑後軌道が走る大正時代の吉井町。明治36年、馬鉄会社と称して吉井街に設立され、最初は吉井、田主丸間を馬に15人のりの客車をひかせました。やがて石油発動機に変わり、明治41年には久留米までつなぎ、大正3年には蒸気機関車となり、翌年、日田の町まで全通しました。この筑後軌道によって巨瀬川の船便は完全に絶えたと言われています。昭和3年に国鉄久大線が久留米から吉井までを開通すると、筑後軌道は30年渡る役割を終え、レールが取り除かれた県道はアスファルト舗装されました。

居蔵づくり
今に残る白壁土蔵づくりの家々は、吉井銀と称された金融活動で資力を蓄えた商人たちが作りあげたものです。時代の流れで店舗の改造は成されましたが、国道210号線の旧豊後街道筋に百数十軒の見事な白壁の町並みを清流とともに残しています。平成8年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、暮らしとともにある古き町並みの保存に取り組んできました。
「居蔵家」とは「住宅と蔵のつくりを合わせ持つ」という意味で、外壁は生子壁、屋根には本瓦を使った建築物です。定紋入りの鬼瓦はその豊かさの象徴となっています。玄関は間口が広く、梁や天井板は材質の優美さと豪華さを競い、中には家財を質屋に預けてまで建てる者も現れ、「三年家主」と揶揄されていました。

骨董の町
江戸時代、幕藩体制の下で日陰の身だった商人・地主は農産加工と売買で莫大な財を蓄え「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれた金融活動を繰り広げます。それらの資本をもとに、地方には珍しく文化をはぐくむ独特の気風が生まれました。文字や哲学、芸術を好み、本当の意味での遊びを知る「粋人」も多い町です。
かつて木蝋屋や造り酒屋を営んでいた中川邸の白壁土蔵には個性豊かな骨董屋がなラビます。通りには「蔵しっくい通り」と名がつき、それぞれの店には主人の個性あふれる品々が並んでいます。

***参考文献***
『みのう自慢』みのう悠々交流会圏連絡協議会発行
『みのうの豆本』うきは・吉井・たぬしまる久留米市耳納北麓地区観光ボランティアガイド みのう悠々交流会圏連絡協議会発行
『福岡県うきは市観光パンフレット』

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